ニューオーリンズと切っても切れないジャズ、ニューオーリンズジャズと
ニューオーリンズの歴史、ウチが「へ〜」と思った事などをまとめてみました。
ニューオーリンズはジャズ誕生の地とも言われています。
ニューオーリンズのあるルイジアナ州は17世紀末にフランス領になり、
この地帯はルイ14世にちなんで『ルイジアナ』と名付けられたそうです。
そして、現在のニューオーリンズは1718年にフランスのオルレアン公爵にちなんで
Nouvelle Orleans(ヌーヴェル・オルレアン)と命名されました。
元々この地に初めて訪れたのは金銀を求めてやってきたスペイン人でした。
それからというもの、この地はフランス領になり、スペイン領になり
再びフランス領になり・・・
その為、スペイン人、フランス人、その他移民が混在する土地になりました。
さらにその後、1803年ナポレオンが1500万ドルぽっちでこの地をアメリカに売却。
この時、ヌーヴェルオルレアンから現在のニューオーリンズへと変わりました。
さらに、1619年以来『安い労働力』、黒人奴隷としてアフリカからアメリカに
黒人奴隷の子孫達が連れてこられ始めた。
その事でさらに人種的な問題が複雑になってしまう事になったようです。
19世紀に入り南部で綿花プランテーションが急激に発展した頃からニューオーリンズの
黒人奴隷の数はさらに急増しました。
その後、ニューオーリンズでは黒人が2つに区別されるようになる。
アフリカから奴隷として連れてこられた黒人達と黒人奴隷と
白人の間に生まれた混血、クレオールです。
黒人とは区別されたクレオールは白人として扱われ、白人同様の教育を受ける事ができました。
その事が後に『Jazz』が生まれる要素にもなったとされています。
この様に、ニューオーリンズは複雑に人種が混在する地になったわけです。
19世紀から20世紀、ニューオーリンズにはヨーロッパ各地の音楽、
西インド諸島から入ってきた音楽、それに、黒人奴隷により祖国
アフリカからもたらされた音楽、さらに奴隷としての生活を送る中で
生まれた音楽がありました。
19世紀半ばの南北戦争の結果、奴隷解放令が発令されると
白人同等の待遇を受けていたクレオールも黒人の血が入っているという事で
黒人として扱われる様になった。
奴隷解放令以前から、音楽を演奏する事を禁止されてきた黒人達は、
日曜になると、コンゴ・スクエア(現在のルイアームストロング公園にある
”ボールガール・スクエア”)に集まり演奏を楽しんでいました。
(コンゴ・スクエアでの演奏は許されていたそうです)
そこに奴隷解放令後、黒人と同じ様に扱われる様になった
クレオール達も集まるようになったのです。
そこで発生したのが、黒人達とクリオール達の音楽の合体です!
つまり、黒人独特のノリ、音楽的感覚と白人同等の教育を受けて
音楽の教養をもっていたクレオール達により持ち寄られた
ヨーロッパ音楽が出会ったのです。
さらに、音楽好きの黒人、クレオール達は軍楽隊が手放した楽器を安く手に入れ、
見よう見まねで演奏するようになりました。
そうやって、ニューオーリンズジャズが形づいてきたと言うことです。
ちなみに、今では『ニューオーリンズジャズ』と『デキシーランドジャズ』も一緒に
ひっくるめて『デキシーランドジャズ』と呼ばれる事が多いのですが、
実は微妙にと言うか本来は全然違ったりもします。
本来『デキシーランドジャズ』と呼ばれるのは、黒人達がやっていた
演奏を模倣した白人ミュージシャン達によるニューオーリンズスタイルの
演奏にたいして使われます。
ちなみにこの『デキシー』はアメリカ南部、『デキシーランド』というのは
ニューオーリンズを含めその周辺の沼沢地を指す名称だそうです。